それがいい

先日のCAYでのライブで思ったのだけど、やはりこうやって島唄を聴くなら三線一本でというシンプルな基本のスタイルが凄くいいなぁと。
 なんかねー、西洋楽器と一緒にとかまだまだ結構萎える。や、もちろん素晴らしいのもあるけど許容範囲めっちゃ狭い。唄と三線のもつシンプルなアンサンブルな調和が、えええ?って感じになっちゃってがっくしってのも多くて。じゃ、それ使うんだったら三線無しでとかさ。なんつーか、あの独特の「間」が埋められちゃったりすると、感じ方も変わる訳で。気持ち良さ半減というか。リズム的な間もあるけど、サウンド(うーん、和音?)的な隙間も結構重要で。そこがキモなのに埋めんなよ!って。あ、もちろんキモって思ってるのは超個人的な独善的な私の意見ですが。
 でもねー、あの隙間かげんが島唄のぐらっとくるええところやと思っているので。だから、三線の一音、一音の響きも大事にして唄う人が好き。あの三線という楽器、シンプルだけど深い音だと思うの。一音弾いただけで、そこから広がる共鳴の渦と減衰の深さ。そこに絡まる声。たーまらんでしょ、隙間好きには。

 だけど世間様を見渡すと「いい!素敵!感動した!」という言葉がいっぱいあるので、ついつい口をつぐんでしまう。そうかぁ、私にはまだ良さが分からないやと。
 否定しているわけでは無い。単に私の音楽的趣味的訴求心が、それ聴きたいんじゃないんだなぁと。三線と太鼓とか笛とかそんな沖縄的な楽器だけでいいやんと。

 多分、私はまだまだ沖縄のことも全然知らないし、音楽に関しても超初心者なのでそういった基本のところから入りたいというか、自分の中にはいままでなかった部分で強烈に求めているのがそういうことなのだろうと。もともとそんなものが無ければ、そういったものとして受け入れるのだけれど、原点な部分があるわけなのでそこに強烈に惹かれているのでやっぱりそこを求めてしまうのだな。
 もうさんざっぱらその世界は聴いて体感してきたよって人には、そういう原点的な感じは飽き飽きなのかもしれませんね。特に沖縄の人に聞くと物心ついた頃からテレビだラジオだとかで流れてて、つまんねーって思ったまま大人になって未だに「そんな古くさいの何がいいの?子供のころからオバァとかに聞かされてさ、古典?は?そんなの拷問だよ」と言われる。気持ちはわからなくもない。私も未だに演歌とか歌声喫茶系は、ちょっと遠慮しておきますだもん。(邦楽は別。あれも深い美しいかっちょええ世界やと思う。先日の歌舞伎鑑賞で義太夫萌えにもなりそうで…ww)
 だから違うことをやりたがる。私は飽きるどころか、今からなのでションガネーですな。だって、沖縄の音楽を意識して聞き始めてたかだか5年になるかならないかだもん。まだまだ新鮮だって。知らないことの方が圧倒的に多いって。

 いろいろな人たちが沖縄の唄をPOPSアレンジとかで色々と出してきているけど、私はまだそこを楽しむ領域まで人間が成長していないのだろうね。だから、唄の持つ本質をまだ体で感じていないので、ああいうのを聴いてもつまらんなぁ〜と思ってしまう。だって、リズムアレンジも古くさいし、音色も古くさいし、コード感もなんじゃその高校生みたいな青臭いのはってのがすんごく多いんだもん。それを新しいって持ってこられても、容姿がどんなに素晴らしくても来ている服だとか、髪型だとか、アクセサリーがまるっと格好悪いとなんだかねーって。中身を分かってないからさ。(中には中身知ってるだけに、残念すぎて目もあてられないとかあるけど。個人的な感想として。どーしてそうなるの?って)
 や、もちろん素敵〜てのもあるよ。有名どころだとおおたか静流とかUAとか解釈うまいなぁって。

 まぁ、私はまだそんな残念な人間なので偉そうにライブを観に行ってどうこう書いちゃったりするけど、残念な人が吠えているだけですので。もっといろいろ聞いて、感じて、少しでも沖縄に近づけたらなぁ〜って、ね。遠いよ、凄く遠いよ。


※まったくもって自分勝手な追記 → そうそう、終わり=カチャーシーってあれもいかがなものかと。しっとりしみじみと聞いた唄と自分の心と対話している時に、無理やり盛り上がれって言われてもなぁ。ごめんなさい、沖縄の文化がよく分かってなくて。
 あの唄のズンとした心に響いた余韻を全身で感じて噛みしめて終わりにしたいってのはいかんのかなぁ。まぁ、さっさと席を立たすにはいい手法かもな。